⇒研修会プログラム過去録


当記事はコロナ禍の影響で中止された定期研修会のプログラムですが、当会リボーン後の未来像を皆さんに想像していただくための、いわば予告編のような内容になっています。

けっこうな量の読み応えのある記事です。脳疲労を起こさない程度に(笑)、でもじっくりと読み込んでいただければと思います。そのうえで日本脳弾塑性学会(準備中)への参加をご検討ください。


すみません、今回のプログラムは敬体(です、ます調)ではなく、常体(だ、である調)になっています…

特別講演[Ⅱ]

『“ノーマン・ドイジ”の功罪-「脳はいかに治癒をもたらすか」を解剖する!-


神経可塑性という概念について臨床的な見識を深めることになったきっかけは?と聞かれたら、おそらく多くの治療家がノーマン・ドイジだと答えるのではないだろうか。カナダ人の精神科医である氏の著作「脳はいかに治癒をもたらすか」に触発されて脳の世界に興味を持ったという人も少なくないと思われる。

テレビ等への出演もあって米国で人気を博し、かつ作家・詩人という顔を持つ彼のプロット構成力や文藻は極めて優れており、ある種プレゼン的なアピール能力の高さを感じずにはいられない。とても計算されて巧妙な筆致が随所に見られ、普通にインプット(無防備な読書)をしてしまうと“ツッコミどころ”をスルーしてしまう恐れが…。

Doiji


こういった分厚いハードカバーの本を読み込むときは、私はユーティリティを重視して小冊子に分解している(持ち運びがGood!)。重たい本はこうしてインプットしてくのがベスト。相応の条件が整わないと人体解剖は許されないわけだが、本は解剖しても罪にならない。

小冊子がボロボロになるほど読み砕いた結果、物語として素直に感動させられる内容である一方、最終的には「なぜ、ここまで“皮膚の次元”を無視する?」という違和感が残った。

ノーマン・ドイジ氏にしても、リコード法のデール・ブレデセン氏にしても、本当に素晴らしいロジックを提供しているのに、この二人に共通して言えるのは「徹底した触覚アプローチの排除」である

アメリカの精神科医や臨床心理士の根底に「患者は汚れた存在で触ってはならない」という文化があって、握手すら絶対にしないカウンセラーがいる。そうしたお国柄が影響しているのだろうか。

BReINのようにタッチケアや関節深部感覚刺激テクニックをはじめとする様々な手技療法、ミラーセラピーや食事指導、そしてカウンセリングといったボーダーレスの統合療法は、もしかするとアメリカ的な神経可塑性療法家(ニューロプラスティシャン)には受け入れられない?

とは言え、日本の脳弾塑性療法家(ブレインエラストプラスティシャン)にとって、両氏が発信する情報が有用であることは間違いない。今後もアンテナを張りつつ、私たちは私たちの道を切り拓いていきましょうね、というお話。

上記ドイジ氏の書籍に関する“私の個人的見解(解説)”は日本脳弾塑性学会の新ウェブサイトのほう(記事になるか、講義ビデオになるかは未定)で改めてじっくりと…

ここではひとつだけ気になった点を。本の中で「神経が圧迫されて痛みが…」「軟骨が擦り減って痛みが…」と、それがさも当たり前のごとき“常識”として描かれるシーンがある…、「ん?」である。

最後に一言。「もし私がハリウッドのプロデューサーだったら、フェルデンクライスは絶対に映画化してる!主役はトムハンクスかマット・ディモン、加納治五郎役は渡辺謙か千葉真一かな」


特別講演[Ⅲ]

『当会Rebornに関する今後の展望ー日本脳弾塑性学会の設立に向けてー


今回はBFI研究会としての最後の研修会(になるはずだった…)。新しい治療名称BReIN(脳弾塑性誘導非侵襲選択的統合法)の概念や今後の活動方針及び将来展望について解説する。

認知症の問題や働き盛りのメンタルヘルスやウェルビーイングの重要性、発達個性の一部が抱える引きこもりのリスクなど、こうした次元が認知されつつある日本では、医療者のみならず一般においても“脳”への関心が高まっている。今後はコロナ疲れやコロナうつといった、言わば“コロナ脳疲労”が社会問題化する可能性が。

脳に関わる知見は日々アップデートされ続けており、常識が覆ることもしばしば。“痛み”の領域も例外に漏れず、ギックリ腰で救急搬送された患者に「脳がいっぱいいっぱいになっちゃたね」と説明する救命救急医の実例は、認知科学が医療の垣根を越えて周知されつつある現状を物語っている。

認知科学は「痛みは感覚に近い知覚である」というこれまでの医学常識を覆し、「痛みは認知に近い知覚である」ことを人類に突きつけてしまった

このような言い方をすると、「はあ?何を言っているのかさっぱり分からん」と感じる人もいるかもしれないが、当ページ読了後にはおおよその意図を汲み取っていただけると思う。

認知科学による痛みのパラダイムシフトは医学の根幹を揺るがしており、教科書と臨床の食い違いはもはや許容できぬ震度に達している。決壊寸前の堤防のごときありさまである。

あらゆる医療の中でもその影響を最も受けている-最強クラスの激震に見舞われている-領域が運動器の外来であるが、一部の、否ほんの一握りの現場では既に認知科学との融合が為されている。その分かりやすい例が「ミラーセラピーによる拘縮や麻痺、痛みの改善」であろう。その技術系アップデートについては当プログラムの後半で紹介している。


認知科学は人と機械を含めあらゆる情報処理を追究する学際的な研究分野。心理学、脳科学、人類学、人工知能等々、様々な学問が融合することで得られる知見は全人医療的な臨床家を力強くサポートしている。

さらに世界規模で進行中の脳研究プロジェクトの成果が次々に発表されており、人とAIの関係も含め脳関連の情報は凄まじいスピードで日々更新され続けている。

こうしたなか痛みのソフト論を共有するコメディカルも学際的なアプローチを模索すべきであり、あらゆる垣根を越えて一致団結する必要がある。日本脳弾塑性学会がプランB(※)の100年サステナビリティのプラットフォームを構築する。

※プランAとプランB…

「プランA」とは2013年に始動した米国の「ブレインイニシアチブ」、欧州の「ヒューマンブレインプロジェクト(HBP)」、そして2014年に始動した日本の「革新的技術による脳機能ネットワークの全容解明プロジェクト(革新脳)」など。

こうした医師や科学者らによる方法論の行き着く先は創薬や手術の類すなわち侵襲的な手段がメインとなる。ただし、チャネルロドプシンに代表されるオプトジェネティクスの運用次第では一部“非侵襲”もあり得る。

一方で「プランB」は“非侵襲のみ”を究めていくプロジェクト。その性格上、これを担っていくのはコメディカルであろう。


ヒトの“言葉”や“手”に宿る力にはいまだ人類が知り得ない“メカニズム”が潜んでおり、これを探るべく臨床の知を究めるに相応しいポジションにコメディカルが座している


実はほんの数日前その核心に辿り着いた。とめどない思考回路の暴走のおかげで当プログラムUPの遅延を招いてしまったが、その代償として余りある成果であることを保証する。

これまでのオキシトシンやドーパミンなどといった概念とは次元を異にする革新的な理論であり、日々の臨床と思考実験を通して“脳”と“時間”という2つのキーワードを軸に見出されたテーゼである。理論の名称はまだ確定していないので、当記事ではとりあえず脳時間的統合仮説(仮名)と呼ぶことにする。


当記事は「幻の開催に終わった研修会プログラム」という本来の体を離れ、本論を理解していただくための前説バージョンとなっている。とくに感覚と知覚の違い、感覚と無意識との関係性は必要不可欠な予備知識である。一部、著者のプライベートが語られる場面があるが余興だと思ってご容赦いただきたい。

最終的に脳時間的統合仮説(仮名)の全貌については日本脳弾塑性学会のnewサイトの中で発表する。

それでは脳と無意識の不可思議かつ深奥なる世界へ、ようこそ!

特別講演[Ⅳ]

『痛みの機能的結合性(functional connectivity for softpain)仮説-ある特定の感覚回路と痛み回路のリンクに起因するソフトペインーおよび多互感(multiple integlated sense)という新たな概念について-


新型コロナウイルスに関しては未知の部分が多いわけだが、重症化のプロセスに血管の炎症を加速させるサイトカインストームの関与が報告されている。これにより呼吸器(肺)だけの問題ではなく、心臓、肝臓、腎臓などを含めた全身性の疾患像として捉える必要性が見えてきた。

こうしたなか2020年5月現在カリフォルニア大学の臨床データで興味深いことが判明している。

味覚や嗅覚の消失が見られた症例が陽性である確率は見られない症例の10倍高いことが分かった。もし味覚や嗅覚の消失があったら感染している可能性がかなり高いということ(今という状況のなかでは)。


さらに、こうした感覚消失が現れた人は、そうでない人(発熱や身体のだるさが主症状)に比べて予後良好で回復が早い傾向にあることが分かった。


もしあなたが味覚や嗅覚の消失に見舞われたら、「あら!感染しちゃったかも!でも私は助かる確率が高いってことか!ラッキー!」と、光の解釈を実践してほしい(光の解釈については後ほど…)。で、我々医療者としては当然ながら「どうしてそんなことが?」と、その理由がめっちゃ気になる…。

おそらく将来的には分子機構的なメカニズムとして説明されるだろうが、
そうした顕微鏡的視点はマイクロマクロパラドックス(昨年の初級セミナーで説明済み。ミクロの視点とマクロの視点のあいだに矛盾が生じること。著者による造語)を生み出さなないとも限らない。

顕微鏡だけを覗いていると交絡因子やチキンオアザエッグを見逃すことがある。治療家に顕微鏡という武器はないが、“臨床思考力”という武器がある。「ヒトに寄り添い、触れて、見て、考える力」はプランAに決して負けない。

仮に感覚消失と免疫機能の関係性がミクロの視点で解明されたとしても、マクロの視点との整合性を兼ね備えているかどうかについて吟味する必要があろう。

ちなみに、この場合のチキンオアザエッグは複数想定されるが、分かりやすい一例として「感覚の消失現象は免疫機能が高まった“結果”なのか、それとも“原因”なのか」という視点…。

症状経過の時間軸から推考すると、後者の可能性が高いと思われる。発症初期での感覚消失は報道のとおりであるが、回復後期に見られたという事例はこれまでのところ見聞していないからである。よって、とりあえず後者(感覚の消失が生体の回復に有利に働いた)を採用した上で、このまま考察を進めてみたい


感覚の消失が生体にポジティブな影響を及ぼした理由を考えたとき、「脳は情報処理の空白に敏感に反応する」という私見が浮上する。これが脳の可塑性を促すという自説が正しいとすれば、新型コロナに感染した生体において、脳局所の機能停止が免疫機能の強化をもたらした可能性がある(その中間プロセスは不明だがグリンパティック系の関与を想像させる)。

ここで重要なポイントは仮に嗅覚と味覚に関わる感覚回路が停止状態になったなら、脳は相当な省エネモードになれるかもしれないという視点。嗅覚と味覚の休息はそれ以外の様々な領域を巻き込んで、より広範囲にまたがる省エネ効果を創出する可能性があるのだ。

はじめにその理由を明かした上で、本テーマの核心に迫っていきたい。



皆さんは
スマウンド(smound)という概念はご存じだろうか?これはsmellとsoundが合体した用語で、匂いと音が脳内の情報処理で密接に影響し合っている現象。

例えば、ほとんどの人類は高い音に対して甘い味、低い音に対しては酸っぱい味を関連付ける傾向がある。マウスの嗅覚系ニューロンが匂いだけでなく音にも反応してスパイクを発射していることも分かっている。

認知症のみならずうつ病においても嗅覚の低下が見られ、さらに鼻腔ポリープを切除すると軽度のうつ病を発症することが知られている。こうした認知症やうつ病と嗅覚の関係性におけるチキンオアザエッグは不明だが。

嗅覚に関しては記憶との関連でも多くの報告がなされているが、なかでも興味深いのは一流のソムリエであっても赤く染めた白ワインのテイストは困難という事実だ。見た目の色に嗅覚が狂わされてしまうのだ。

こうした昨今の感覚処理にまつわる認知科学は興味が尽きない。

例えば共感覚については「文字を見て色を感じる」といった書記素色覚が有名だが、これ以外にもスペアミントティーの味にガラスの手触りを感じたり、嬰へ(F♯)の音に鮮やかな緑色を感じたりするなど、様々な事例が報告されている。

研究者いわく「共感覚はもともと備わっている異種の感覚統合が一面的に強く現れたものであり、そもそもヒトの感覚はそれぞれ個別に働いているわけではない。視覚と嗅覚、味覚と聴覚など一見無関係のように思える感覚も脳内の領域をまたいで共同作業を行っている」のだそうだ。

健常者であっても、共感覚というシステムを潜在的に持っている可能性があり、カリフォルニア大学ロサンゼルス校の心理学者Ladan Shamsも「脳は個別の専門領域の集まりで、相互作用をしないという考えはもはや採用できない」と語っている。

共感覚に関連するシステムの亜型として、例えばマガーク効果(視覚情報と聴覚情報のずれに対して脳が視覚を優先させる現象)や触視覚統合ミラーセラピー(鏡像認知における視覚情報と触覚情報の微差が脳可塑性を誘発する現象)、小脳が予測した触覚処理とのあいだに時間的なずれが生じることで感じる“くすぐったさ”などがあり、これらは数ある異種感覚統合のほんの一部に過ぎない。



視覚は視るだけでなく、聴覚はただ聞くだけではない。人間の感覚は様々な手法を用いて相互に補い合っている(航空機パイロットに見られる空間識失調がその証左)


これが冒頭で示した「味覚や嗅覚の消失は広い領域の省エネ云々」と述べた理由である。味覚や嗅覚に関わる感覚系回路が不活化することによって他の感覚処理系にも影響を与えつつ、より広範な省エネ領域を生み出す可能性があるのだ。

だからと言って新型コロナ感染者に視覚や聴覚まで消える危険があるかと言えば、そういうことではないだろう(実際そういう話は聞いたことがない)。

後述するように感覚系回路の中には無意識レベルでの処理経路(まだ見つかっていない未知の経路が潜在していると言われている)が相当数含まれており、それらの一部が休止状態になったとしても意識に上らない-知覚に影響を及ぼさない-可能性は十二分にある。

とくに嗅覚回路の特異性(視覚や聴覚などの感覚情報は皮質を経由して扁桃体と海馬に送られるが、嗅覚だけは嗅球からの信号がダイレクトに扁桃体に送信される)を考えたとき、そして認知症やうつ病とのチキンオアザエッグを考えたとき、嗅覚回路の不活化はサブコーティカル代謝(皮質下エネルギー)の大幅な削減効果につながるのではないかという視点が浮上する。


嗅覚回路を犠牲にすることによって何かもっと重要なことにエネルギーを注いでいるという見方である。これが正しいとすれば、新型コロナ感染者の回復が早まる理由について一定の解釈になり得る。



今から10年ほど前、医学史上初めて「ギックリ腰は脳の自衛措置である」ことをネット上に発表したが(当該記事は現在リニューアル中で閲覧不可)、もしかするとギックリ腰同様に嗅覚低下もまた認知症やうつ病の重症化にブレーキをかけようとする自衛措置かもしれない

認知症の嗅覚低下は総じて糞便や汚物などの臭いが分からなくなる現象が先行する。まず嫌な臭いから感覚処理を停止させていく方策は自衛措置の観点からも理にかなっている。

このとき方法論との整合性で気をつけたいのは「それが自衛措置と言うなら嗅覚刺激はNGということか?」という浅慮だ。認知科学においては原因論と方法論の関係性が1対1で分かりやすく成立する場面は少ない。1+1が2にならないのが複雑系であり、常に“個体差”と“親和性”という両視点を併せ持って脳を見ていく必要がある



ソフトペインには認知症やうつ病の重症化を防ぐ役割がある」と訴えて久しいが、こうして眺めてみると、ヒトの脳は様々な形で自らを守るシステムを持っているようだ。

例えば脳内GPS(海馬の場所細胞と嗅内皮質のグリッド細胞)の研究によれば、完璧な幾何学的発火パターン(結晶のような正六角形)を持つグリッド細胞はヒトの記憶形成と空間認知の関わりにおいて極めて重要な任を負っていることが推断される。

著者は認知症に見られる徘徊はグリッド細胞の発火を促そうとする脳の自衛措置だと考えている。脳にはいまだ知り得ない多種多様な防衛システムが備わっている…、そんな気がしてならない。脳は本当に奥深い。まさしく小宇宙…。



さて、ここからはいよいよ痛みの機能的結合性仮説に迫ってくことにするが、前述した「異種の感覚同士をつなぐ仕組み」として何らかの知見はあるだろうか?答えはYESである。

例えば、ヒトが相手の情動を読み取る際は視覚皮質と聴覚皮質からの情報を“前頭前皮質内側”および“側頭葉の上側頭溝”が中継して認識する。

この領域は感情を伝える手段が「顔・声・しぐさ」のいずれであっても必ず活動する。しかもその一部がデフォルトモードネットワークと重なっているところがミソ。当会が掲げる境界意識仮説を補強、補完する知見だと言える。つまり異種感覚の統合にもDMNが関与している可能性があり、これについては今回披瀝する自説の一角を担っている。


その自説の核心にそろそろ迫りたいところだが、無意識下の感覚処理についてもう少し詳しく見ておく必要がある。その格好の題材が盲視(ブラインドサイト)磁気覚である。

盲視は視覚皮質の損傷によって視力が奪われた患者に見られる不思議な現象。診察室から立ち去る時、見えていないはずの椅子を無意識によけたり、対面する相手の喜怒哀楽の表情を“見分けている”ことなどが知られている。

眼球そのもの(網膜)に異常はないわけで、映像情報は脳の無意識に入力されており、その処理プロセスにおいて皮質下レベルの反応が誘発されると考えられる。

「眼球は正常でも脳内の情報処理に…」という展開においては脳卒中患者に見られる半側空間無視と少し似ている。これは右脳が左右の両視野を担うのに対し、左脳は右視野だけを担当するため、左脳がやられても右視野は残る(右脳によってカバーされる)が、右脳がやられてしまうと左視野が完全に欠損する。そのためほとんどの半側空間無視は“半側空間無視”という形をとる。


ちなみに右脳と左脳の本質的な違いは、左脳は日常的な出来事および空間細部に集中し、右脳は非日常的(不測)な
事態および空間全体に対応する(そのため左右の両視野を処理している)。小型草食動物で言えば、左脳は日常ルーティンの捕食として小さな虫を追いかけ、右脳は急に上空から接近してきた鷹に反応する。こうして左右が分担して情報処理にあたることでリスク回避を行っている。


次に磁気覚について。磁場に反応する能力がバクテリア、原生生物やさまざまな動物を含む200種以上の生物にある。その代表例ともいえるミツバチや渡り鳥の方位識別の力がヒトにもあるかどうかについて長年議論されてきたが、一昨年ついに東大やカルフォルニア大学の共同研究チームらがその存在を証明した。その詳細についてはこちらのページを参照していただきたい。

ただし磁気覚があるからといって、絶対的な方位が分かるということではない。昨年の初級セミナーでウェーバーフェヒナーの法則について詳解したとおり、ヒトの感覚は絶対値を入力するわけではく、相対的な変化すなわち比率に反応するという原則を忘れてはならない。10グラムと100グラムの重さの違いが分かるのは、数値を識別しているのではなく、変化した割合を感じているに過ぎない。

こうした感覚処理に関わる研究成果を受けて、ヒトが入力する感覚のうち意識に上ることなく、すなわち無意識下で処理される感覚を第六感と呼ぶ向きもある。そのため先に紹介した盲視も磁気覚も、これこそが第六感だとして紹介されることが多い。


このように無意識下の感覚はあくまでも“感覚”であって“知覚”ではない…。もし磁気覚が意識に上って「北の方角はあっちだ」と明確に分かったなら、それは“知覚”である。そして北は寒い場所だとイメージしたならば、それが“認知”である

感覚と知覚と認知の違いをきちんと理解して臨床に臨んでいる医療者はどのくらいいるだろうか。これをおろそかにすると、HSP系(感受性亢進の人々)の臨床に戸惑いが生じるので、きちんと整理しておいたほうがいい。



ところで人類が無意識下に入力する感覚-第六感の候補-は他にもあり得るだろうか?

簡単に思いつくものだけでも、気圧、電流、電圧、放射線、可聴域外の音(空気振動)、可視光線以外の光などが挙げられる。

気圧については当会の一般講演会で解説したが、人類は深海生物ならぬ深空生物である。地球表面を覆っている空気の体積(重さ)が気圧である。その目に見えない重さ(圧)が酸素濃度を維持している。標高が高くなるにつれて気圧低下とともに酸素密度も激減する。エベレスト登頂に成功した登山家はすぐさま下山しないと命が危ない。

こうした気圧の変化を感知する生体デバイスは内耳だけでなく、準密閉構造をなして内圧制御の仕組みを持つ全ての器官であり、中でも特に関節内圧と皮下組織圧の働きは重要。

可聴域外の高周波に対しては、皮膚を通して脳が反応していることも一般講演会で詳述したとおり。

電流値(アンペア)は移動する電子の総量であり、電圧値(ボルト)は電子の移動速度である(分かりやすいイメージとしての表現)。人間が感電したとき生死を分けるのは一般に電流のほう。電圧だけが高くて電流が低い場合は衝撃を感じるだけで済む。時に気絶する可能性もあるが(これを利用したのが10万~100万Vのスタンガン)。

しかし、スタンガンとは反対に電圧が低くとも電流が大きい場合は非常に危険。ヒトに流れる電流が1~5mAならビリビリ感じる程度だが、10mAで我慢できない痛みとなり、20mAで呼吸困難、50mAでは命の危険にさらされ、100mAだと絶望的と言われている。

通常1mAくらいからヒトは通電を感じるわけだが、それ以下の小さな電流も
無意識下で処理されている可能性がある。“そんなものはない”と決めつけるべからず。磁気覚の証明が物語っているように、電流以外の様々な物理的エネルギーも同様…。

こうした次元における超個体差というものを本当に真剣に考えるべきときが来ている。



保険病名が認められた化学物質過敏症とは違い、電磁波過敏症は医学的に認められていない。そのせいか国産自動車メーカーは室内空間における電磁波対策を欧州車ほど講じていないと聞く。5Gに対してもベルギーやイタリアではその健康被害を認め規制する動きが出ている。欧州では電磁波の観点から子供に携帯を持たせない法規制が広がっている。

電磁波をはじめ、このような無意識下での感覚情報処理は認知科学の発展によって今後ますます知見が増えていくだろう。このとき我々が留意すべきメカニズムこそが「異種感覚統合」である。多感覚統合と呼ばれることもある。


感覚同士の結びつきについては先ほど紹介したとおりだが、ここで私が言いたいのは、神経回路の結びつきは果たして感覚系回路だけの問題か?という視点である。

デフォルトモードネットワーク(DMN)では前頭葉内側と後部帯状回が結びついている(同期して働いている)が、こうした広域にまたがる同期現象は当然ながら特定の感覚系回路だけを指すものではない。


認知科学において脳内の離れた領域が互いに協調して働く状態は機能的結合性(functional connectivity)と呼ばれる。


心理学で有名な「感覚転移」という現象には大きく分けて2種類がある。感覚が認知を変えてしまうケース感覚が知覚に影響を及ぼすケースである。前者の例としては、中身が同じ茶葉でも、薄い袋に入った軽い商品より木箱に入った重たい商品のほうが美味しく感じるといった場合で、後者の例としては、ラバーハンドイリュージョンや皮膚うさぎ錯覚などが挙げられる。

どちらのケースも機能的結合性の次元をよく表しており、先述した「痛みは認知に近い知覚である」と述懐した所以でもある


「音楽を聴いても全く感動しない」という人の脳では、聴覚皮質と中脳辺縁系の報酬系の伝達が少ない、すなわちこの両者の機能的結合性が弱いことが分かっている。先に触れた航空機パイロットにおこる空間識失調(悪天候や雲の中で視覚情報が途絶えた際に引き起こされる平衡感覚の消失。墜落等の原因となる)は、視覚と平衡感覚の機能的結合性の破断として捉えることができる。

これらとは反対に共感覚では感覚同士の機能的結合性が強まっているわけで、もしかするとソフトペインの中には無意識下で処理される感覚系回路と痛み回路との機能的結合性が生まれているケースがあり、かつそれが強まっている場合があるのではないか。


だとすれば、わずか0.1mAを入力した感覚回路と痛み回路が結合した場合、これが電磁波過敏症に見られる頭痛の正体と言えるのではないか。同様に気圧の変化、光刺激などによって痛みが出るメカニズムも説明できるのではないか。

音楽てんかん(特定の周波数の音に対しててんかん発作をおこす疾患)も同じ仕組みとして説明できるのではないか。


難治性疼痛に苦しむ患者さんたちの中に、「無意識下で処理される感覚回路と結びついた(同期した)痛み回路」を抱えている人たちがいるのではないか。これが『痛みの機能的結合性仮説』である


こうした機能的結合性を強めたり、あるいは弱めたりする役割を結果的に果たしているものがDMNに代表される安静時広域ネットワークではないかと、著者は考えている。

痛み回路と何らかの感覚回路を共振させてしまう(引き込み/エントレインメント)機能的結合性のメカニズムについては先述したような中継基地(接続ポイント)ーDMNーがあって、さらに…。ここから先は日本脳弾塑性学会のサイトのほうで。



ずっと前から、実は五感という響きには複雑な思いがある。これはアリストテレスに起源を発する言葉らしいが、人間の感覚がまるで五感しかないような先入観をもたらしている側面がある。五感以外の感覚、例えば第六感という言葉の響きに対して疑似科学の一種と見なすかのような偏見にも辟易とする(すぐに超能力だとか霊感だとかを連想したり、果てはタッチレスという響きにも宗教だとか中傷してくる輩がいる…)。

ま、なんにせよ五感はヒトの脳が入力する感覚情報の総体を捉えた概念としては使い勝手がいい言葉だ。その一方で、解剖学的にデバイス(感覚受容器)が発見されているものとデバイスが特定されていないものに分けられるという視点、あるいは意識に昇る感覚と無意識下で処理される感覚があるという視点をマスキングすることに…。


組織学的にデバイスの見つかっている感覚だけが教科書に記述され、それのみが“科学”だという人々の思い込みを解くために、今後は五感ではなく“多互感(たごかん)”あるいは“互感”という用語にとって替えることを提起したい。


毎度造語ばかりで恐縮だが、認知科学の発展は今後ますます五感という響きに対する違和感を強くさせていくだろう。ここまで読んだ読者ならお分かりいただけると思う。



特別講演[Ⅴ]

『“神経可塑性”から“脳弾塑性”へシフトすべき理由-無意識と脳レジリエンスの関係-


世界中が新型コロナ危機に直面するなか、私たちの中にあるレジリエンスが試されている。下はNHKのクロ現の放映シーンを切り抜きした画像(講演で使うはずだったkeynoteの一部をスクショ)。


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この番組は数年前に放送されたもの。レジリエンスを知るための入門教材としてとても分かりやすい内容だったので当日会場内で供覧する予定だったが…。

先の大戦下、強制収容されて生き残ったユダヤ人たちのその後の人生の明暗について調べるなかで浮上した概念がレジリエンスである。アウシュビッツ収容所から生還した精神科医ヴィクトール・エミール・フランクルの名言をはじめに紹介する。

「人間だれしもアウシュビッツ(苦悩)を持っている。しかしあなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望していない。あなたを待っている誰かや何かがある限り、あなたは生き延びることができるし、自己実現できる」

レジリエンスを象徴する言葉として、ずっと心に刻まれているフレーズである。東日本大震災を生き抜いた東北の人々をはじめ、数多の自然災害や戦争を乗り越えてきた祖父や祖母、曽祖父や曾祖母たちは皆レジリエンスを持っていた。

そのおかげで私たちは今ここに存在している。その子孫である私たちにも“この力”は絶対に受け継がれている。心が折れそうになったとき、自分の胸に手を当てて自らのレジリエンスと向き合おう。

鋼のように、ただ跳ね返すだけの強靭さ、シンプルに硬いだけの強さは、いざというとき真の助けにならない。強度だけを上げたところで、それを超える力は必ずどこかにあって、いつなんどき襲ってくるか分からない。強さだけを求めるのではなく、時としてゴムのようにしなやかに、柔軟に、伸び縮みしながら、いなしながら、軽くさばきながら、受け流しつつ、かわしていく力…。

そして「なんかよくわからんけど、きっとなんとかなる!大丈夫!」という根拠のない、でも揺るぎない、いい意味で発動する“思い込み”と信じ切る力。


こうした“思いの力”はポジティブシンキングの類とは一線を画す。そんな安っぽいものではない。

基本的にネガティビティバイアス(人はポジティブなことよりネガティブな出来事を記憶にとどめやすい)を根底に抱える人類は「リスク管理軽視と紙一重のポジティブシンキング」よりも「ポジティブインプット-嬉しいことや楽しい出来事に意識を向けること-」を重視すべき、というのが昨今の心理学の潮流。



こうしたポジティブインプットという方向性のその先に、私が提唱する「光の解釈実践法」がある。「世の中の全てに光と影があるわけだが、極力“影の解釈”ではなく、“光の解釈”を屁理屈でも構わないからゴリ押しで見つけていこう」とする世界観

例えば、ランチで入ったレストランの店員があまりの忙しさにテンパっていて、そのあおりをくらって不遜な態度を取られたら、「ああ、今日はこの店のものを食べてはいけないと、神様が教えてくれているんだな。もし食べたら、今日の自分の体調的におなかを壊してしまう危険があったんだな。なんてラッキーなんだ。店員さんの神対応に感謝」と考えて、急な連絡を装って(携帯を耳にして頷く素振りをして)、ごめんなさいと言って退出するといった次第である。

局面的には不愉快なことが起きても、それはその先に待ち構えていたであろうリスクを回避するために提示されたサインだと捉えて、究極的に光の解釈を実践する生き方である


例えば「コロナショックによる東京五輪の延期」に対する光の解釈実践は以下の通り。

『水面下でテロ組織による相当に用意周到なる強力な準備が進められていたが、新型コロナのおかげで回避された。仮にテロが決行されていたら想像を絶するほどに甚大な被害が…』

『1年延期というタイミングのずれはテロ組織中枢の方針転換を促すことになり、結果的に仕切り直しの五輪はターゲットから外れ、観客やアスリートの命が守られた…』

日本の経済を考えれば2021年はなんとしてでも開催にこぎつけてほしいと願っているが、万が一中止になったならば「テロ組織の方針が転換されず、むしろ準備がさらに強化されて恐ろしいほどに壮大な計画が練られていたが、中止によって幹部たちの思惑は大ハズレに…」と解釈する。

このように
未来に待ち受けていたかもしれない架空のストーリーを創出することで、今というこの瞬間に少しでも肯定的な感情を作りだそうとする、言わば未来仮想型ポジティブインプットである。



光の解釈実践法とレジリエンスのチキンオアザエッグ-それを実践するからレジリエンスが発動するのか、それともレジリエンスが高いから実践できるのか-はさておき、
“思いの力”ひいてはレジリエンスというものは筋トレならぬ“脳トレ”のような手段によって、すなわち“鍛える”“訓練する”ことで身につくものなのか?

最新の認知科学は“NO”だと言っている。

脳にも癒しと鍛錬の両プロセスが必須であり、最初に脳疲労をケアしたうえで、その次に“鍛える”段階に進むという流れが多面的な安全性を担保する。脳が疲れ切っている状態ではどんなチャレンジの類も失敗するリスクが少なからずある。

ノーマン・ドイジ氏の著作の中では脳の可塑性発現による奇跡的な症例がてんこ盛りに紹介されているが、その背景には効果のなかった事例も多数存在している(有効例のインパクトが強過ぎて読者の印象に残りづらいかもしれないが、丁寧に読み込んでいけば分かる)。

革新的な治療が世に出るとき光の部分が眩しすぎると、非有効例がマスキングされやすいわけだが、効果のほどが得られないケースについて思慮する際は脳疲労の次元あるいは前回の研修会で取り上げた“超個体差”を視野に入れるべきで、その先に控えている“無意識の問題”から目をそらしてはいけない。



脳疲労のケアを含めあらる疾病の改善に欠かせない要因のひとつに“無意識の働き”がある。ヒトが無意識に抱える安心感、自己肯定感、自己効力感といったものがレジリエンスの発動に大きな影響を及ぼすと、私は考えている。

無意識に関わる医学的知見に対してどのような姿勢で向き合うべきか、当然ながら医療者によって温度差があり、脳のレジリエンスに対しても同様である。

従来の神経可塑性という概念はアメリカ人的な発想やインフルエンサー(先に紹介したノーマン・ドイジ氏)の登場もあり、「脳を鍛える」「鍛錬する」という視点に偏り過ぎていて、レジリエンスに関わる文脈が欠如している。

昨今、海外論文を眺めていると、
malleability(可鍛性)という用語を目にする機会が増えてきた。これは物質科学において展性と呼ばれる概念で、物質に圧縮が加えられた際の変形能力を指している。特に自由電子のやり取りをベースに持つ高度な金属加工で使われる用語。鉄は熱いうちに打て!(鍛錬)に近いイメージ。やはりアメリカ人はビリーズブートキャンプに象徴されるように“鍛える”のが好きなのだろう。

日本人だって鍛えるのが好きでしょ(昨今の筋トレブームがその象徴)と言われれば、否定はしないが、国民性としてはちょっと違う。古武術の歴史を振り返れば明白である。古来から日本人はパワーを追求するよりも、しなやかさ-いかに効率よく身体を操るか-を求めてきた。柔よく剛を制すと言えば分かりやすいだろう



こうした精神性は実は建築の世界にも受け継がれている。地震大国である我が国は
制震、免震等の技術開発において世界トップを走っている。構造物をただ強固にするのではなく、揺れに対して「いなして、かわす」技法である。

この分野において、変形して元に戻らない性質(塑性)と変形から回復する力(弾性)を兼ね備えた「弾塑性ダンパー」は日本の制震技術の高さを証明している

鉄筋やコンクリートをどんなに強くしても、ひとたび大震災に見舞われてしまえば建物の損壊は免れない。しかし制震ダンパーや免震装置を組み入れることで激しい揺れから躯体を守ることができる。東京スカイツリーに採用された制震システムは五重塔の心柱を現代に再現したものだ。

奈良時代の宮大工の叡智が現代建築に大きな影響を及ぼしたという事実は驚愕に値する。ちなみに「五重塔は人間の腰椎を模したもの」という私の発見はいまだ建築学会を揺るがすに至っていない。私が生きているあいだに震動させる日が来るだろうか。そこに関しては免震装置を外してほしい…。



ちょっと脱線したが、過労死の英語が“karoushi”であることに象徴されるように(欧米では過労死する人はいないと言われている)、日本は疲労研究においても世界のトップランナーである。筋肉疲労の正体が実は脳疲労であることを世界に先がけて突き止めている。

乳酸説をいまだに信じている医療者はいないと思われるが(もしあなたが知らなかったら失礼。“疲労”“乳酸説”でググっていただければと)、海外の医療者が“脳疲労説”をどのように理解しているか甚だ疑問である

過労死と同様に脳疲労という概念もまた欧米人にとって分かりにくい定義かもしれないのだ…。アクセルとブレーキの踏み間違いは海外でも起きているのだが…。ノーマン・ドイジ氏による“可塑性の狂乱”あるいは“ノイズに満ちた脳”という表現手法のほうが彼らにはしっくりくるのかもしれない。

今後、neuro-plasticity(神経可塑性)という概念がどういった方向に向かうのかは分からない。数十年後は malleability(可鍛性)に取って代わっているかもしれない。


しかし脳疲労研究の最先端を走る日本は『elasto-plasticity(弾塑性)』を世界に発信していくに相応しい国だ


アクセルとブレーキの踏み間違いは加齢という次元のみで説明できるものではなく(実際40代や50代でも起きている)
、その根底には脳疲労が潜んでおり、こうした脳疲労のなかには自律神経中枢の疲れを伴うケースがあり、その場合数値(トータルパワー)の増減としてリアルタイムに描出できることなどを国際学会で訴えていく必要がある。

そして「脳弾塑性」こそが“脳疲労の改善”と“可塑性の発現”の両方を的確に表すことができる概念であることをアピールすべき。



CRPS(RSD)の臨床を思い描くと、こうしたロジックは理解しやすいだろう。CRPS(RSD)の患者に“脳を鍛える”という概念と手法をいきなり適用することのリスクは容易に想像がつくはず。

まずは疲れている脳を癒しつつ-脳局所における充血と虚血といった代謝不均衡すなわちメタボリックインバランスを是正させつつ-、患者と医療者の信頼関係を構築したうえでなければ、その次の段階(可塑性の発現)には進めない。


昨今CRPS(RSD)系の患者さんはたいていネット検索症候群に陥っており、まさしく脳疲労と隣り合わせ。こうした疲労から回復する力が脳レジリエンスである

一生治らないかのようにネット洗脳されている患者さんに精神的落ち着きをもたらすべく、個体差の著しい「安心スイッチの入りどころ」を模索しつつ、丁寧な傾聴カウンセリングと施術を同時進行させていく必要がある。

いきなり可塑性云々ではなく、まずレジリエンスによって心と肉体を回復させ、そのあとに神経可塑性(神経回路の再配線)を促すという手順を踏まなければならない



今後、北米や欧州が“可塑性”あるいは“可鍛性”という用語で行くとしても、我々日本人はあくまでも“弾塑性”で…

脳の代謝産物(老廃物)を洗い流す役割が判明しているグリンパティック系(グリア細胞が主役を務める脳洗浄システム)に象徴されるように、グリア細胞に関わる新知見は今後も出てくるだろう。

仮にグリア細胞の真の存在理由が解明されたなら、これまで考えられてきた主役と脇役の関係が逆転する可能性がある。その場合、ブレノスタシス(当会が唱える脳独自のホメオスタシス)の観点からも神経可塑性-神経細胞(ニューロン)に焦点を当てた概念-では、脳にアプローチする“全て”を説明し切れなくなる。

グリンパティック系はブレノスタシスの生命線であると同時に“脳疲労回復システム”でもある。まさしく“脳の中のレジリエンス”

基本的にレジリエンスは心理学の概念だが、これからは脳の中の回復システムを指す用語として使ってもいいと、私は考えている。


以上をまとめ
ると脳の弾性とはすなわち脳レジリエンスを指しており、塑性とは従来の神経可塑性を意味する。両者の融合が弾塑性である。



外傷や慢性痛、回復期リハ、自閉スペクトラム症(発達個性を含む)、パニック障害やうつ病、そして認知症…、これらのすべてに脳弾塑性を誘導するという概念が医療の中核を成すべきであり、そしてその方法論は非侵襲的なものがファーストチョイスであるべきだ。

血液脳関門をすり抜けた諸刃の剣(即効性という麻薬のごとき効果と長期に苦しむ副作用)とは一線を画す、より安全な手法「プランB」も絶対に必要というお話。




特別講演[Ⅵ]
『臨床において患者さんの自己効力感(self-efficacy)が発動するとき-遺伝子スイッチオンの瞬間を考察する-


ある患者さん(60代女性)とレジリエンスについて話していたとき、「あ、あのとき…、私にもレジリエンスがあったんだわ…」と。

『5年前、卵巣嚢腫の摘出ope で市立病院に入院したとき、手術前に担当医から「おそらく大丈夫だと思うが、開いてみたら癌だったということがある、その場合は手術時間が4時間以上に及ぶ、癌がなければ2時間以内で終わる」と言われていたんです』

そのため、本人は手術時間がどうなるのかずっと気になっていて、手術が終わって麻酔から覚めたとき家族から2時間以内だったことを聞いて安堵した。しかし、実は手術する前に自身の生還を確信した瞬間があったのだと。

ストレッチャーで運ばれて手術室に入る直前、担当の看護師から「じゃあ、またあとで」と言われた瞬間、「ああ、自分は助かるんだ」と強烈に思ったんです。でも、そのときはどうして自分がそんな気持ちになったのか分かりませんでした。退院したあと、ふと入院中のことをいろいろと思い出したとき、その理由が分かったんです。私の担当の看護師さん、実はすごく相性が悪い相手だったんです。めちゃくちゃ最悪だと感じていました』

その看護師は「横柄で冷たい人」と感じさせる人物だったらしいが、ふだんと何一つ変わらない“つっけんどん”な態度を取ったことで、いつもどおりの声掛けをしてきたことで、「その時の自分はかえって深い安心感を抱いたのだ」と、回想してみせた。

たしかに究極の自己効力感をもたらした瞬間だったのだろうと想像できる。

ある意味終始自然体を貫いたその看護師のぶれない姿勢が本人に光の未来を確信させたということか。このような自己効力感の発動は遺伝子のスイッチをオンにし、意識のない術中にあって、血圧の安定や出血の少なさ等々につながり、術創の回復を早める可能性がある


患者が手術に臨むとき、そこにどの程度の自己効力感が発動するか、これは無視できない要素。そしておそらく普段の我々の臨床においても、こうした要因が患者の予後に与える影響は計り知れないほど、実は大きい

そしてこのようなレジリエンスの多くは無意識下に起動スイッチがある。私はそのように考えている。



 

特別講演[Ⅶ]

『適応機制の内の一つ「攻撃機制ソフトペイン」の典型例について−難治性疼痛の中でも際立って治療家泣かせの症例(こういうケースに遭遇したら頑張らないで内心ギブアップしましょうというお話)−


41歳女性の四十肩症例(整形・整体・接骨・心療内科・神経内科・ペインクリニック等々に通ってきたが不変)。

父はパーキンソン病で既に他界。母は若いころから虚弱体質で、数年おきに血を吐いたりしていたが原因不明と言われ続け、精神科で転換ヒステリーと言われていた(亡くなった夫に対する不満が凄まじく「自分が病気になって、あてつけてやるんだ!」みたいなことを平気で口にする母親だったと)。

今も父は母に殺されたようなものだと思っていて、どうしても母を許せないと。ここ数カ月のあいだでも母とのやり取りで怒りを覚えることが多い。

本人の夫婦関係について…、自分が肩の痛みに悩まされ始めたときから、なぜか夫は自分の趣味に没頭するようになっていて、自分の話を聞いてくれない。そんな夫にイライラするようになった。夫に伝えたいことがいっぱいあるけれど、相手にしてもらえないという怒り、不満が非常に強い。

こういったケースに対しては「身体表現性障害」と診断されることが多い。この概念は「身体化障害、転換性障害、疼痛性障害、心気症、身体醜形障害などを総称した症候群」である。


確かに本症例における本人とその母親はそろって身体表現性障害の可能性が高い。おそらく母親は半ば確信犯的に血を吐くという身体化障害だったものと思われ、そして本人は無意識に痛みを出すという疼痛性障害に該当する。

しかし最新の心理学において、3つの適応機制<防衛機制・逃避機制・攻撃機制>という視点で捉えると、本人も母親も攻撃機制の典型だと言える。

攻撃機制とは自身の欲求不満を解消する手段として、物や人に八つ当たりする、あるいは自傷行為に及ぶといった行動パターンを持つ。本症例は夫に対する強い不満を“無意識の自傷行為”という形を経由してソフトペインを出し続けている、というのが私の見方である。

当方のカウンセリングによって、「母親への強い怒り感情が影響している」と、そこまでは本人も自覚するに至ったが、その先に秘められている夫への言わば「無意識アピール」については、それについて伝えるべきか否かを逡巡して診察を終えたその翌日「そちらの治療を続けても治りそうにないので通院を中止したい」という、攻撃的なニュアンスのメールが届いた。

通院3日で終わり、4回目はなかった。どうせ終わってしまうのなら、言うべきだったのかなと一瞬思ってしまったが…。

ただ、それを伝えた結果、本人の受け止め方次第では夫婦間の深刻な亀裂に…という危険があった。患者さんの無意識にあるものが見通せたからと言って、それを伝えていいということにはならない。パンドラの箱を開ける権利などないのだ。開けていいという道理もない。

だから言うに言えなかったという事情がある。結論から言えば、やはり言わなくて正解だったと思う。たとえ「あんなところに行ってお金の無駄だった」と思われたとしても…。



特別講演[Ⅷ]
『なぜその患者さんに引導を渡さなければならなかったのか?-目の前の患者さんを助けるために自分(施術者)が引く決断を迫られた2症例について


総合臨床家にとって非常に考えさせられる症例に遭遇した。人生にとって必要不可欠の道しるべ“赤信号”の役割を自らが担う(担わされる)ことになった経緯について、多角的に検証したい。

我々のごとき感情労働を生業にしている者が抱える宿命的とも言える自分自身の脳疲労リスク…。患者さんを救うために全身全霊をもって臨んだ結果が、発雷のごとき突然の衝撃をもって関係性が“断たれる”刹那、たとえ己が招いた結果であったにせよ、予期していたにせよ、自身の心はさすがにノーダメージというわけにはいかない。

自分の決断は間違っていなかった、これで良かったんだという理屈とは裏腹に、心の奥底には小さな“潰瘍”ができる。人間という謎と不条理に満ちた生き物を相手にする限り、絶対に避けて通れない現実とどう向き合うべきか、自らの“心潰瘍”のケアの重要性についても伝えたい。

最終的に辿り着く患者さんとの距離感はもちろん医療者によって異なるわけだが、やむなく深入りせざるを得なかった場合においてさえ、私のように“異常接近する”臨床家はそう多くはいない。しかし距離感の如何を問わず、いろいろな意味で本当に考えさせられる症例なので、是非みなさんにも一緒に考えてもらいたい。

これについては日本脳弾塑性学会あるいはBReIN総研のほうで動画あるいは記事で報告する。



特別講演[Ⅸ]
自覚なきHSPに薬物依存が合併した症例を考察する-患者が通い続けるならば最後まで絶対に諦めないぞと決意した件-


Sens  

上記の右下タイプ(非自覚系HSP)の症例。60代男性、上場企業の重役。これまで病気らしい病気をしたことがない。主訴は胸部不快感、腹部膨満感、歩行中の息苦しさ、ふらつき。

ドクターショッピングを半年以上続ける中、精神科において抑うつと言われ向精神薬を投与されるも、自身のメンタルの問題を受け入れることができず、「肉体次元の病気がどこかに潜んでいるはず」という思いを拭い去れない。「まさか自分に限って精神的な問題でこんなリアルな症状が出るはずがない」と、自身の繊細さを受容することができない。

血圧に関する問診に「全然問題ない」と即答する患者の言い回しに微かな違和感を覚えたが、その場ではスルー。ところが、その日の会計時にようやく「あっ、先生ね、さっき言い忘れたけど、問題ないんだけど一応ね、血圧の薬は飲んでる…」と。

1カ月前、循環器内科での診察時に170だったので降圧剤を出された。もともと自宅では問題なくて「なぜか病院で測ると血圧が高い」ことが多いと。“白衣高血圧”こそが本人のメンタリティを物語っているわけで、それを指摘してみたが「いやいや関係ないでしょ。俺は心臓に毛が生えているタイプだし…」と

降圧剤の副作用として代表的なものが“ふらつき”であり、本人の訴えと見事に重なることについて説明したが、非受容の姿勢。そのうえで「とにかく以前のように元気にしてくれる、いい薬はないですかねえ」と。つまり薬によって助かるプロセスがファーストチョイスであり、方法はなんでもいいからとにかく助かりたい、ではなかった。

自分を救えるのは薬だと信じている。なので、本人いわく「三上先生のように丁寧にいろいろ説明してくれたうえで、ばっちり効いてくれる薬を処方してくれるドクターがいるといいんだけどねえ」と。

人はゴールだけを求めているように装いつつも、実際はプロセスとゴールの両方を求めていることが多い。なかにはプロセスのほうがプライオリティが上というケースも…。自らが納得いく形で、自分が思い描くストーリーで回復したいという無意識に近い願望がある。

気に入らない方法で回復したとしても、その現実を無視したくなる、なかったことにしてしまう、そして自分が腑に落ち切ったストーリーで回復したとき、はじめて回復という事実と本人の満足感が同期する。現実(結果)に満足感が同期しない人間はドクターショッピングを続けるしかない

この患者さんのおくすり手帳をチェックしたところ、なんとベンゾ系を2種類、副作用の問題を複数の週刊誌で指摘されている“いわくつきの降圧剤”など7種類に及ぶ投薬を受けていた。そのなかでも特に問題のある3つを下に示す。

  ①アムロジピン(カルシウム拮抗薬)降圧剤 副作用(歯肉肥厚・むくみ・ほてり・めまい・ふらつき)
  ②リボトリール(ベンゾ系) 抗不安薬・長時間型
  ③ロラゼパム(ワイパックス・ベンゾ系) 抗不安薬・短時間型

この症例は非自覚系HSPなので、すなわち差次感受性があるため当方の施術に反応する(しかも驚くことなかれタッチレス適応症例)。ほとんど触らないタッチケアに何かしらの変化(施術による回復)を感じているのである。にも拘らず自身の感受性については理解不能…。本当にヒトという生き物は面白い。個体差への興味は尽きない。

とは言え、診察時の何気ない会話のなかで、こちらに対する信頼感のようなものを匂わす瞬間がある。当方との人間的な親和性(相性の良さ)を感じてもらえているあいだは通院を続けてほしいと願っている。



特別講演[Ⅹ]
『エックスセンス(X-sense)という概念を提起する意義について-施術中に心不全発作を起した患者さんの訴え(背部の激痛)がソフトペインであったと考える理由-』

 過日、施術中の患者さんが突然息苦しさと背中の激痛を訴えて身もだえし始めた。ベッドに寝ている姿勢があまりに辛そうだったのでとりあえず椅子に移動してもらったところ若干改善はしたものの、激しい症状が続いていたため救急車を要請しようとしたが、本人が固辞。

東京の銀座から当方(埼玉県越谷市)に通院している本人にとって、こちらの病院に入院してしまうとその後の展開が困ると。とは言え、1時間かけて電車で帰宅するなんて無理。

「座っている姿勢のほうが落ち着く感じがする」と言っているので、ならば「私が車で自宅まで送り届けます(それ以外に方法がない)。その上で症状が収まらないようなら自宅から救急車を呼んでください」と伝え、数十年ぶりに都内を走る羽目に。マジ緊張した。後部座席には状態がいつ悪化するか分からない急変患者。運転席には首都高恐怖症を抱える50代半ばのオッサンが冷汗ダラダラ…。

この顛末は我々臨床家にとって非常に重要な話になるので、次回のBReIN総研第一回セミナーで詳しく語りたい。とりあえずこの一件以来、私の診察デスクには血圧計が常置されている


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 専門家によれば「パンデミックは新型コロナだけじゃない。その裏で、実は心不全パンデミックが起きている」と実際のデータを示して警鐘を鳴らしているが、まさか自分がそれを経験するとは夢にも思っていなかった。

教科書でしか見たことのなかった“起座呼吸”…、本当に危なかった。ここでも光の解釈である、本当に自分は守られている、助かったという話でもある。




特別講演[Ⅰ]

『私の毎日のルーティン-解剖ビデオを観る理由-


グンター・フォン・ハーゲンス博士によるプラスティネーション(人体の輪切り標本)を知ったのは、今から25年前、上野で開かれた「人体の不思議展」に足を運んだときである。

当時私が勤めていた病院のスタッフ(女性看護師)と二人で会場に入った際、目立つ場所に展示してあったクジラの巨大ペニスを凝視した彼女がひとこと「…でかい」と呟いたのだが、なぜかそこだけ記憶に残っていて、肝心の展示物のことはあまり覚えていない。

デート場所に選んだこと自体がナンセンスだと言えばそれまでだが、もっと真剣に観ておくべきだったと後悔し、その数十年後ハーゲンス博士による解剖ビデオ(ホルマリン固定されていない新鮮な献体を公開スタジオで解剖していく映像)を入手して以来、これを眺める時間を日課にしてきた。

閲覧注意。ショッキングな映像ですので、耐性のない方は画像をクリックしないようご注意ください。

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左上の脳は亡くなって間もない新鮮な献体の頭蓋骨を外して脳を取り出した瞬間であり、その隣は別の献体のもので、こちらはホルマリン固定した脳をスライスした直後の画像である(ビデオ内ではお肉屋さんに置いてある機械で実際に脳をスライスしている)。

かつて私の脳裏に突如“皮膚トーヌス“(重力に抗うべく皮膚自体が持つ緊張)という概念が浮かんだのは、右上の解剖シーン(吊り下げられて直立している献体の皮膚を剥いでいる場面)を見ているときだった。そのようなインスピレーションが降りてきた理由は実際のビデオを見れば分かる。勘のいい人は上の画像だけで想像がつくはず。

さらにその右隣のシーン(脊柱を切り開いて脊髄および坐骨神経全部を引っ張り出している)のハーゲンス博士の力の入れ具合や手さばきから、神経組織の物理的強度(とくに引張応力)をリアルに感じることができた。ガチで神経は強いことが分かる!



私は祖父の代から続く“ほねつぎ三代目”としてこの世に生を受けた。柔整の学校時代は父の接骨院で、卒業後は整形で骨折の整復固定に関わる新しい手法を次々に開発した(上肢二重分離型ギプス、フィンガートラクションによるギプス巻き等々)。

Ddddd2222(左は学生時代に自作した厚紙固定  右は整形時代に創作したプライトン固定およびFT整復&固定)


ちなみに私の父は柔整でありながら救急外科病院の手術スタッフとして採用され、10年以上のキャリアを手術室の中で過ごした。

生前の父の口癖は「開胸して直接心マするときは心臓を握るだけじゃダメなんだよ、握ったあと放すときの力加減が大事なんだ」であった。こんな柔整は他にいない。

生前の父は食事中ほろ酔い気分になってくると、自身の執刀体験(さまざまな骨折の手術や内臓手術のリアルな話)を語ることが多かった。「食事中に止めてよ」と嫌がる母には気の毒な展開だったが、息子にとっては解剖学的に深イイ時間だった。



認知科学という言わば「情報処理システムのアプリ開発」に傾注している今の自分と、かつて骨折の整復や固定に執念の炎を燃やしていた若かりし頃の自分。デジタルとアナログの違いというメタファーが適切かどうか分からないが、いずれにせよ偏ってはいけないという本能が働いている。

“脳”と“時間”に関わる考察を深めていくと、どうしてもシュミレーション仮説に行きついてしまうのだが、私が時覚(ときかく)と名づけている“時間知覚”に関わる研究を眺めていると、やはり「絶対時間は存在せず、脳が時間を作っている」としか思えない。「それでも月は存在している」と断言したアインシュタインに逆らうなんて…、どうかしているけれど。

認知科学にどっぷりと浸かっていると、そんな思考に支配されていく自分が怖くなるが、解剖ビデオは再びクオリアの世界に私を連れ戻してくれるのである。こうした習慣は思考バランスの偏りを防ぐために必要不可欠…。そんなお話でした。



“ちなみに”パート2…、柔整の本来の姿(骨折保存療法のプロ)から遠ざかることになった遠因のひとつ…、今から20年前の整形勤務時代。受傷直後のX線に描出されなかった大腿骨頸部骨折の患者さんとの遭遇

当時物療室の責任者として毎日その患者と接していたが、初診時のX線結果(正面.側面.斜位.軸位の4方向で骨折線を認めなかった)を盲信して理学所見の変化を軽視し、不安を口にする患者さんに「大丈夫ですよ」と軽々しい対応を続けた

ところが3週間が経過したころ下肢長差に気づいた私は「これはおかしい!」とようやく事の重大さに気づき、院長に「経観の写真見たいんでレントゲン撮ってください」と直言し骨折が判明(荷重歩行を続けたことで徐々に顕在化したと解釈できる)。最小侵襲の治療で済むはずだった患者の貴重な時間を奪ってしまった。

受傷初期にX線に映らない大腿骨頸部骨折はMRIに描出され得るという報告を当時の私は知らなかった。

医療センターに転医したその患者さんを見舞った際、「おかげで手術をすることになった。これからの私は“障害者”扱いになるそうだ。お前のことは絶対に許さない。土下座して謝れ」と言われ、私は泣きながら病室の床に額を押しつけた。

それまで医療から離れたいと思ったことが何度もあった。実際一度目は完全にリタイヤして軽井沢に引きこもって小説家になる夢を追いかけた。いくつかの文学賞に応募したものの全て落選という結果に心が折れそうになったが、30分近く土下座を強いられていたあのときは完全に心が折れた

その後しばらく立ち直れなかったが、紆余曲折を経て私のレジリエンスは幸いにも発動してくれた

発達個性である妻の超天然系の天真爛漫さが救いになった。ヒロミが伊代ちゃんを愛し続ける理由が私には分かる。



とは言え、あの体験はいろいろな意味でその後の人生に影響を与え続けている…。患者さんに対して「大丈夫です…」というセリフは二度と吐かないと誓ったが、あるとき患者さんへの思いが高じて利他のパワーが勝ったとき、いとも簡単にその封印は解かれてしまった。実際「大丈夫です」によって救われる患者さんのほうがはるかに多い…。

土下座するリスクよりも患者の力になれる可能性を優先することは、冷たい床の感触が額に蘇るフラッシュバックと常に隣り合わせだ。けれども保身のために全力を尽くさない自分がいるとしたら…、そんな己のほうがよほど怖い。

なので今日も身を削る思いで「見てください!自律神経のトータルパワーこんなに上がりましたよ!これだけの数値が出ていれば大丈夫です!」と、必死の笑顔(協調性の乱れた表情筋)を出力している。

そんな日々の営為が報われたときは、脳がへドニアよりもユーダイモニア優位(※)となり、己の選択の正しさを実感する

※へドニアとユーダイモニア…

最新の心理学では人間の幸せには2種類あると定義されている。

へドニアとは「快楽の幸せ」。五感を通して味わえる喜び体験。美食、温泉、映画や音楽、ランチや飲み会など。当会の視点における長所を挙げると「脳疲労の改善」であり、短所は「依存症リスク」。

私は子供のころから偏食傾向が強く、今なお自身のスイーツ依存と闘っている。砂糖、乳製品、小麦を一定期間摂取しないときに感じる脳の爽快感を何度も体験しているにも拘らず…。誘惑に勝てない自分がいる…。

ユーダイモニアとは「自分の強みを活かしつつ何かに打ち込める幸せ」。日本語に訳すと「生きがい」に近い概念。自身の人間的成長ならびに他者や社会への貢献に対して感じる幸福。当会の視点における長所は「自己肯定感UP」であり、短所は「脳疲労マスキングのリスク」。

は生来「自己肯定感が低いタイプ」なので、ユーダイモニアに傾くと嬉しく感じる。

 柔整は折れた骨を治すのが本来の仕事だが、今の自分は「折れた心を治す」ことを生きがいにしている。自身の体験(どん底から這い上がれた道のり)を患者さんにも、そして同業の仲間たちにも知っていただき、そしていっしょに乗り越えていきたいのである。

痛みの謎を解くという大義名分より、単に知的好奇心が勝っていただけだったかもしれない…、かつての私はひとさまの心に不用意に立ち入り過ぎた結果、多くの患者さんを傷つけてきたと同時に、自身も深く傷ついてきた。肉を切らせて骨を断つような臨床をずっと続けてきた。

8年前、新築デザイナーズマンションの1Fテナントを借りた際、一千万超を投資した治療院の経営に失敗した。待合室を健康関連の本で埋め尽くしたライブラリーカフェにして、施術と情報発信と癒し空間の融合を試みたが見事にこけた。

借金返済に追い詰められ自死による完済を何度も考えたが、その都度目に見えない何かに助けられてきた。

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そうして「自分は何かに守られている」というある種の自己効力感と、そして泉のごとく沸き続ける感謝の念。これこそが私にとってのレジリエンスの源泉…

自身が奇跡的に守られたと思えるエピソードは語り出したら切りがない。失敗の数だけレジリエンスも積み上げてきた。やらかした数の多さ(少ない方がいいに越したことはないのだが)は相当なものだという自負がある。

そうした歩みを披瀝することによって、臨床家たちの助けになるような情報を届けたい。反面教師にしていただいて結構…、良くも悪くも私という生(ナマ)の教材を有効活用してほしいのである。